

「この10ヘクタールに及ぶ山の七割は、私一人で植え付けしてきた。やっぱり愛着がわくよ。たくさんの人に喜んでもらえるのがうれしい。これほどの観光地になろうとは……自分の仕事がいつまでも残り、お役にも立てたと思うと、離農のかいがあったというものさ」。 芝桜公園の「ピンクのじゅうたん」を二十ニ年間管理してきた中鉢末吉さんは語り始めた。 |

「最初の花は、留辺蘂町から運んだ。亡き姉が終戦直後に一掴みづつもらってきたんだ。」畑作農家だった中鉢さんはこつこつと芝桜を増やし、自宅に十アールほどのミニ芝桜公園をつくった。 その見事さに藻琴山温泉管理公社から「芝桜で村の憩いの場をつくってほしい」と頼まれた。 「もともと畑も小さく、馬で畑を耕していた。そんな状況だったので、大好きな花に専念でき、村の人や温泉客に喜ばれるなら」 と、離農までして公社職員に転身した。五十八歳の時だった。 当時は三年ほど、芝桜の苗を自宅からリヤカーで運んだ。 |

毎日毎日、陽が昇るころから暗くなるまで、小高い丘一面に生い茂ったカバの木や笹やトクサを刈り払い、根を掘り起こして火山灰地を耕し、苗を一株ずつ植える。 急斜面なので機械は使えず、一人っきりの手作業……字に書けば簡単だが気の遠くなるような作業であった。 一年に一ヘクタールほど開墾し、約八年で現在のピンク色の丘に変えた。 その後がまた大変で、スギナ、スカンコ、タンポポなどの雑草抜き、一ヶ月かけて一巡すると、また新しいのがはびこった。 十月まで五巡してその年が終わる。毎年その繰り返し。生やさしいものではなかった。 「花は人を見ている。愛情を込めなきゃ駄目。手を抜こうものなら、てきめん不機嫌になる。丁寧に扱うと、きれいになる……花作りは子育てと同じ」。 信念の汗が、温泉の丘をピンクの芝桜をまとった一大公園と化した。 「これが東藻琴の芝桜だ」と見事な景観とスケールで、多くの人を呼び込んでいる。 平成四年に「もう年だから、区切りの潮時だ」と、一度目の退職をしたが、花が機嫌を悪くして呼び戻された。かなりひどい状態だったという。 気がつけば八十歳を越えていた。 「右ひざの関節炎のため、平成十一年限りで隠居させてもらいました」。中鉢さんは満足げに「引退宣言」をした。 |
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もちろん中鉢さんだけではなく、多くの方がこの芝桜公園を育ててきたし支えてもきた。 現在駐車場では、マイカーや大型バスが間断なく出入りする。「空から見た芝桜の丘へ」と、女満別空港からタクシーをとばしてやってくる人がいる。 ある観光客が「公園のてっぺんから見渡すと息をのむ。眼福とはこのことか」と。 百八十度に展開する大パノラマは芝桜の海のようでもあり、桜色の波がたっているようにも見える。 |
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平成十年度から平成十二年度までに、利用期間の延長による集客増を図った芝桜公園の周辺整備が概ね完了した。 入場者の大半を占める団体ツアー客の入場の効率化を図った。 また、新たに整備されたイベントステージ。今後の村内の各種施設との活用による体験型観光を目指した、簡易オートキャンプ場もお目見えした。 観光協会において主要道道網走川湯線を「「芝桜花街道」とネーミングし、宣伝看板を設置した。芝桜のプランターも登場した。 平成18年には東藻琴村と女満別町が「大空町」として合併。 老朽化した「藻琴山温泉施設」を解体撤去。安定的な来園者の確保を目指し、魅力的な風景づくりや、少子高齢化や福祉社会に対応できる、利用者の利便性の向上を図った誰もが楽しめる公園づくりに着手。 平成21年までの2ヵ年芝桜公園再整備により、芝桜の景観を楽しみ、芝桜の中で楽しみ、人が集い賑わい、水と緑の寛ぎをそなえ、高齢者や障がい者への配慮された安心・安全な、芝桜植栽10ヘクタールを有する芝桜公園に生まれ変わった。 私たちはこの芝桜を観光資源としていつまでもいつまでも大切に後世に語り継ぎたい。 今日もまちのあちらこちらで芝桜を見かける。 私たちは、芝桜の国の人なんだと言っても過言ではない。 |
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芝桜はハナシノブ科の多年草でフロックスの一種です。 北アメリカ原産で、花壇の縁取りなどに栽培されます。 花の形がサクラに似ており、 芝のように地面をおおって咲くので芝桜と呼ばれています。 四月~六月上旬に、直径1.5センチメートルほどの赤、桃、白、紫の小花を咲かせます。 芝桜公園はこの時期に、約10万平方メートルの園内が芝桜の花で埋め尽くされます。 |
